前衛について ――サントリーホールサマーフェスティバル<2020東京アヴァンギャルド宣言>から

 サントリーホールサマーフェスティバル2020が終わった。

 わたしは08 / 23の後半の回と、08 / 26の回、そして最終日である昨日の回の、聴衆のひとりとしてこの前衛の祭典に参加させていただいていた。お名前は存じ上げていたけれど作品に関しては・・・という作曲家も少なくなかったので、それだけでもフェスティバルの参加は有意義であった。

 

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 印象深かったのはシュトックハウゼンの『「クラング―1日の24時間」より 13時間目「宇宙の脈動」電子音楽のための』(2006~2007)、高橋悠治氏の『鳥も使いか』(1993)、同じく『「オルフィカ」オーケストラのための』(1969)、杉山洋一氏の『「自画像」オーケストラのための』(2020)だったのだが、各作品によせる感想はまた別の機会に書こうと思う。ただ、前もっていわせていただければ、どれも示唆に富む作品群であった。改めて聴きたい作品ばかりなので、発売化を心から望むところである。

 

 さて、実は、08 / 26の演奏――高橋悠治氏、山根明季子氏、山本和智氏の作品が上演された――を聴き終えたわたしは、その帰り道、素晴らしい充実感に浸りながらも、同時にまた巨大な疑問符に自分の頭を擡げさせられていた。そしてその疑問符は今日の回を聴いて、さらなる膨張をみせた。それは、極めて単純な問いでありながらも、まさにこの問いへ果敢に挑戦するためにこそフェスティバルの存在意義はあるとさえいえるであろう、「前衛とはなにか」という疑問である。もっとも、こういった問いを聴衆に抱かせる狙いを一柳慧氏は見据えていただろうから、わたしは格好の、実に凡庸な観客なのかもしれない。

 わたしはいくつかの作品に対し、「これはアヴァンギャルドなのか」という不審を抱いた。だが、即時にいってこのような感想は疑われねばならない。「自分が思うアヴァンギャルド」との不一致から生じた印象である可能性を否定しえないからだ。ゆえに「今日的な意味の前衛とはなにか」を(音楽にはズブの素人の身分であっても観客として参加した身分から)考えたいのだが、それはまた後日にまわし、そこへ行く前に自分が思う前衛とはどんなものか、という問いを考えておきたい。たぶん、わたしが抱く<前衛>の印象は決して個人の次元に留まらない、つまり、ある程度一般的な印象――前時代的で、やや古めかしい雰囲気を持つという印象――であると考える。ゆえに、今日的な前衛を検討するうえで有意義であろうと思うのだ。

 

 おそらく、前衛という語から誘発されるのは、「破壊」や「政治」、「倫理」というイメージではないだろうか。大文字の「常識」なるものをぶち砕き、反社会的、反体制的、アンモラルな行為さえ厭わないような強烈な思想と実践。たとえば、つい最近、川島素晴氏の企画によってわずかながらも脚光を浴びたE.シュルホフは[1]、まさしく前衛の音楽家だったと個人的には思う。それはふたつの理由によってである。ひとつは、クラシカル、無調、微分音、ジャズ、民謡、無音、ポルノ、イヴェント的な要素を稀代の怪盗的センスとユーモアによって自在に組み合わせたシュルホフの音楽は、まったく前衛というイメージを喚起させるような力に満ち溢れたものばかりであろう。前衛芸術には、極めて苛烈な説得力が宿っているものだ(ストラヴィンスキーしかり、ブーレーズしかり、リゲティしかり、シュトックハウゼンしかり、ポロックしかり、ラウシェンバーグしかり、ヒルシュホーンしかり…)。

 


String Quartet No. 2: I. Allegro agitato

 

 

 


Erwin Schulhoff - Sonata Erotica for female voice solo (1919)

 


Erwin Schulhoff : In Futurum, Part III from 5 Pittoresken (1919)

 

 こういう言説は、杉山洋一氏や松平敬氏が述べられているような[2]、1950~60年代の前衛が前衛なのだ、といった漠然としたイメージをもっていたという話と、ある程度同一だろうと思う。

 

 だだ、シュルホフを考えるうえで、シュルホフの芸術家としての思想がダダイズムと関連している点を看過することはできない。ダダイストは野蛮な破壊者ではない。第一次世界大戦を契機に疑われたデカルト的理性への批判者である――実際、シュルホフは兵役を経て反戦思想を色濃くする――。ダダイズムの思想は、戦争体験にもとづく絶対的理性や秩序の脆さ、あるいは虚構の発見にはじまるのであり、そしてその実践においては、まったく芸術的な手法をもっておこなわれたのである。ゆえに、ダダイストは政治的かつ倫理的と言い得、ダダイストであったシュルホフが前衛であるとは言いえるのである[3]。同じ意味で、未来派の宣言――F.T.マリネッティの苛烈な銘文は前衛である。「咆哮をあげて、機関掃射の上を走り抜けるような自動車は「サモトラケのニケ」より美しい」[4]! したがって、前衛芸術における破壊的行為とは、単なる無差別な破壊ではなく、正にそうしなければならない方法だったのだ。目的が政治と倫理に裏打ちされ、また、結果においても政治と倫理が関与する。これこそが前衛と呼ばれるべきものであろう。

 

 しかし、こういったアヴァンギャルド観は極めて「時代的」であろうし、この立場から今日の前衛を批判したり考察したりしたところで、せいぜい懐古か憧憬、無意味な議論にしかならないであろう。むしろ、公演に先立って開催されたプレトークにおいて一柳慧氏が言っていたように、アヴァンギャルドがかつてのようなものであっては、すでに退廃しつつある音楽は再生しないであろうし、過去を超克しえまい。とはいえ、新しい前衛の様態が、果たして<自然的>なもののか、音楽が人間の営みであることの必然性への問いなのか、身体への接近なのか。それは未明ながら、サマーフェスティバルが前衛に対し意義ある企画であったことは言うまでもない。

 

 

[1] 川島素晴氏による企画公演。<川島素晴 plays... vol.2 “無音”>。川島素晴氏オフィシャルブログ。無音0)川島素晴 plays... vol.2 “無音” を8/1に開催致します | 川島素晴 -Action Music-

[2] ONTOMO記事。「アヴァンギャルドな音楽とは何か。一柳慧、杉山洋一、松平敬がコロナ禍に伝えるカタチ」。アヴァンギャルドな音楽とは何か。一柳慧、杉山洋一、松平敬がコロナ禍に伝えるカタチ|音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」

[3]  よく知られているように、シュルホフは退廃芸術家として強制収容所に収監され、そこで命を落とす。「退廃芸術」という観点から芸術的価値を見出そうとする向き――体制側に抑圧されたことが前衛の証であるとする向き。もっとも、これは音楽に限らない――もあるようだが、わたし自身はこの立場にないことを念のために明言しておく。

[4]  F.T.マリネッティ未来派宣言」(1909).以下から引用した。ヘレン・アームストロング編著、小川浩一訳、『GRAPHIC DESIGN THEORY グラフィックデザイナーたちの理論』(BNN、2007)54。