前衛について ――柴田南雄の『布瑠部由良由良』

 

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柴田南雄(1916~1996)

 

 前回の投稿で前衛について考えはじめたわたしは、20世紀の音楽作品、とくに日本の作曲家の作品で前衛といいえるものはなにか、という――「自分が思うアヴァンギャルド」とはなにか、という課題をさらに深化させた――問いに対し、たとえば柴田南雄の『布瑠部由良由良』など、極めて前衛的なのではないか、と思った。なぜなら、本作は前衛らしさをたたえた力強い説得力と、政治性、倫理性を確保している――まさに前衛作品だと考えられるからである[1]

 

 本作については柴田による論「いま、何のために音楽をするのか」に詳しい[2]。これによると、本作はNHKの「古典芸能番組班」(当時)のプロデューサーである下田秀夫氏からの依頼を契機に構想されたという。下田氏は柴田に「古代楽器や複製品との声の出会いの場を幻想的に現出するような作品」を頼み、この指示を受けた柴田は、最終的に『布瑠部由良由良』の構成をつぎのようにまとめている。

 

 

『布瑠部由良由良』の創作意図は大略次のようである。現在という時点で、日本のさまざまな地点で、多種多様な<ニホンゴ>が行われていることは、われわれの想像以上である。いわゆる標準語(東京方言)、文学者の個性的文体、翻訳詩、神社やお寺の祭祀の詞章……。しかも、これらには、その起源に応じた歴史的な層序を認め得る。たとえば南島方言が古代の標準語と多くの共通点を有していることはよく知られているし、社寺の用語にも古形が少なくない。つまり、われわれの言葉を形造ってきた言語層のさまざまなレヴェルが、地理的、文化的に拡散して、現代にも生きつづけているのであるが、それは同時に、日常の言語という表層に覆われているわれわれの言語の深層でもある。この作品は、それら幾つかの出会いの場所である。それらは、われわれにどのように作用するであろうか。

 また、それら言語に伴う旋律や楽器にも、当然のことながら歴史層序は存在する。とくに近年は縄文・弥生の石笛、土笛、琴などの出土品が多く、それに銅鐸をも加えて歴史的言語との幻想の場を作った。[3]

 

 なお、『布瑠部由良由良』はNHKのラジオ放送が初演であり[4]、『古代楽器と声による「ふるべゆらゆら」』と名づけられている。もっとも、柴田は着想の段階からライヴ上演の可能性も見越して作曲しており、1982年のライヴでは『ふるべゆらゆら』[5]、1990年のライヴでは『布瑠部由良由良』と表記されており[6]、変遷がうかがえる[7]。本稿では、「いま、何のために音楽するのか」において一連の作品を<布瑠部由良由良>として柴田はまとめているので、これにしたがった。

 

 ところで、柴田南雄は言葉と音との関係を重視していた。本書の最初に収録されている評論「「こおろ」と「もゆら」」からも、こういった態度を窺うことができる[8]。この評論において柴田は、『古事記伝』にみえる、水をかき混ぜる音のオノマトペ(こをろこをろ)と、飾り物が擦れ合う音のオノマトペ(もゆらもゆら)――いってみれば古代のオノマトペと、「ドボドボ」「ジャラジャラ」といった今日的なオノマトペの対比をはかっている。

 

 しかし、kowoloといいmoyulaといい、なんと悠長で、大らかで、みやびやかな擬声語であろう。悠長さや大らかさは、どちらも三音節、つまりゆとりある三拍子であることと、子音に騒音の要素がなく、母音ともども軟らかい響きであることから来ている。「ドボドボ」「ジャラジャラ」はどちらも二音節で、しかも騒音じみて殺風景だ。こちらは要するに、現代の音であり、言葉である。[9]

 

 

 『布瑠部由良由良』で様々なレヴェルの言葉が呈示されるのと同時に、音がまた重要な位置を占めているのはこのためである。

 

 本作では多種多様な日本語と日本の音とが素材に扱われるが、ラジオ放送版の『古代楽器と声による「ふるべゆらゆら」』を例に取れば、つぎのようである。

A.古代の日本語と古代の音楽。

・古代の日本語: 「布瑠部由良由良」の祓詞と「手の術」。奈良県天理市石上神宮に伝わる死人返りの呪文。作品のタイトルにも使われている。石上神宮で崇められる布留御霊は、建御雷の化身で、『古事記伝』においては、あの有名な熊野における神武のエピソードに登場する神である。ちなみに、筆者は当社の崇敬会の一員だが、それなりの貢献をみせると、年に一度開催されているセミナーに参加することが可能らしく、「布瑠部由良由良」の呪法を授かることができる。「手の術」は「ひふみよいむなや…」の詞である。

・古代の音楽: 古代楽器。石笛、土笛、古代琴、銅鐸。笛類と銅鐸に関しては演奏家の上杉紅童氏や國學院大学の考古学資料館の協力を得ており、琴は福岡県沖ノ島の祭祀跡地からで採掘された金銅製の琴のミニチュアと、修猷館高校の学生が復元した弥生時代の琴とを使っている。

 

B.現代の日本語と現代の音楽

・現代の日本語: 吉増剛造氏の現代詩「地獄のスケッチブック」が採用されている。これはわたしが吉増剛造氏御本人様からお伺いした話だが、柴田南雄に吉増氏を紹介したのは安原顕氏だったそうだ。両者ともに文芸誌『海』に携わられていたので、編集者の安原氏が柴田に吉増氏を紹介したらしい。「地獄のスケッチブック」は『わが悪魔祓い』に収められている[10]。ラジオでは高橋大海氏が朗読しており、1982年のライヴでは詩人御本人が登壇している。

現代の音楽: ロック。柴田南雄本人による作曲。しかし、ラジオ放送に際しては坂本龍一氏が編曲している。坂本氏は柴田南雄の教え子である。なお、矢野顕子氏もこの録音に参加している。

 

以上のAとBが中心素材で、このほか以下が素材に扱われている。

 

・声明「散華」「神名帳」: 東大寺十一面観音悔過で唱えられる声明。「散華」は智昇の『集諸経礼懴儀上巻』に寄っており、「神名帳」は東大寺独自の文句である。ラジオ版では高橋大海氏がつとめられている。

・民話「鬼と四人の子ら」、「てんぽ物語」: 「鬼と四人の子ら」は奄美加計呂麻島の民話。島尾ミホ氏(島尾敏雄氏のご婦人)の声に心を打たれた柴田南雄は、島尾ミホ氏に声の出演を懇願したという。「てんぽ物語」は津軽の民話で、東京混声合唱団の森一夫氏が朗読をつとめている。

・翻訳詩: ボードレール作、福永武彦訳「秋の歌」。小編成の混声合唱

・リコーダー演奏: 琴(弦楽器)の対置がエレキギター、銅鐸(打楽器)の対置がドラムなので、石笛・土笛の対局と思われる。

 

 『布瑠部由良由良』はなぜ前衛といいえるのか。

 まず、その迫力に圧倒される。石上神宮の呪文や仏教音楽が感じさせる呪術性、無調の合唱曲、古代の息吹を生々しく表現する縹渺とした笛の音、キッチュな気分をたたえた、陽気で、どこかヒステリックなロックミュージック…。これらが同時に設置された世界は、作曲者の思惑通り、極めて幻想的である。そればかりか、ユーモラスでエモーショナルなのである。わたしはこの作品を法政大学アリオンコールのライヴ録音で初めて知ったが、銅鐸や琴の音にあわせて呪文が唱えられたかと思えば、唐突にドラムのステッキがリズムを刻み、荒々しい(しかもダサい)ロックが演奏される様子には虚を突かれたようであった。しかも、その背後で神道の祓詞が絶えず奏されているのである! 「前衛」という雰囲気を顕著に感じさせられたものである。

しかし、実はこの作品は十分すぎるほど政治的かつ倫理的なのである。柴田自身によるコンセプトを再度参照してみよう。

 

『布瑠部由良由良』の創作意図は大略次のようである。現在という時点で、日本のさまざまな地点で、多種多様な<ニホンゴ>が行われていることは、われわれの想像以上である。いわゆる標準語(東京方言)、文学者の個性的文体、翻訳詩、神社やお寺の祭祀の詞章……。[11]

 

重要なのは、柴田の作品が大文字の<日本語>という虚構性を指摘する装置として機能する可能性を帯びている点、換言すれば、<国語>をめぐる問題として起ちあがる点である。

国語という概念の誕生は、わが国においては日清戦争を契機としたナショナリズム化に伴っての出来事であった。本格的な議論は明治35年の国語調査委員会でなされ、会長を加藤弘之に、主事を上田万年に置き、前島密等を構成員としている。余談だが前島密は言文一致の苛烈な推薦者であり、西周にならぶほどの漢字廃止論者でもあった――漢字廃止の旨を徳川慶喜に建白しているほどである――。

国語とは近代国家の象徴である。それは歴史上はじめて国語という制度、概念が誕生したきっかけがフランス革命にあり、エリートたちが国民の精神を結託させる装置として開発した経緯からいっても明らかであろう。かつてベネディクト・アンダーソンが述べたように、言語は<想像の共同体>を構築するのである[12]。日本が明治期になって国語を拵える必要性に駆られたのも、まさに日本を「近代国家」に位置づけようとするためであった。もっとも、イ・ヨンスクが的確に言及しているように[13]、日本においては国語の完成に先立つ――国語の基盤となる――日本語それ自体の多様性が不安定なまま、国語の構築が目指された。したがって、国語それ自体かなり曖昧かつ暴力的であるのに、ことわが国においては猶更その向きをもつといえる。

柴田南雄の『布瑠部由良由良』は、まさにこうした国語という虚構に打撃を与えうる装置なのである。一神教的、父的な大文字の概念としての「国語」が孕む不安定性を、現実的現象によって本作は砕く力を本作は秘めている。したがって『布瑠部由良由良』の場はしたがって怖ろしいほどにアノニマス的に聴こえるが、実態は確固たる理論に裏打ちされた、極めて政治的で倫理的な機能が作用する作品なのである。

そして、あらためていうまでもなく、国語という概念に対する作品の打撃は、国語を想定する人びと、イ・ヨンスク流にいえば、日本でおこなわれる言語の同一性を信仰する人びとへの打撃でもある。

 

今、「日本」という政治的・社会的空間に住むあらゆる人々が、何よりもまず、「ひとつの日本語」を話していると信じなければ、概念としての「国語」など成立するはずもない。いうまでもなく、現実の言語にはさまざまな地域的・階層的。文体的変異がかならずある。しかし、そうした変異性がいかにばらばらなものであったとしても、それをまさに「変異」として把握できるのは、背後に共通で同一の尺度があるからこそである。つまり、「国語」の成立にとって、もっとも根本的なのは、現実には、どんなに言語変異があったとしても、それをこえたゆるぎない言語の同一性が存在する信仰をもつかどうかである。現実の言語変異は二次的なものであり、想像される「国語」の同一性こそが本質的のものだという言語意識が、絶対に必要なのである。[14] 

 

『布瑠部由良由良』は歴史性と地理性とが混沌とした状態の場所として、観客の前に、あるいは演奏者の周辺に出現する。それはエモーショナルな音楽であるにもかかわらず、粘り強いコンセプトとともに完成された一個の世界、まさしく前衛なのである。柴田の音楽作品は、常に時空間との対話であった。たとえば『ゆく河の流れは絶えずして』では音楽技法によって音楽史の軌跡が表現されているし、『宇宙について』では地理と時間とが重要な意味性を帯びている。だが、実はこのような営みは、すでに『追分節考』にもうかがえた性格なのである。そして『追分節考』の真価は、J.ケージのイヴェントやK.シュトックハウゼンラウム・ムジークなど、当時の先鋭技法と民俗音楽とを接続することにあったわけでは、おそらく、ない。むしろ、上原六四郎を象徴に位置づけた、当時の楽壇アカデミズムへの批判こそ重要なのである。したがって『追分節考』の価値が共時的なかたちでしか輝かない危険性を孕むことが認められつつも、柴田の作品が政治的かつ倫理的であるという態度は、この作曲家にしばしばみられる個性であり、それゆえに柴田南雄を前衛に位置づけうると考えるのだ。

 

 

 


柴田南雄: 『ふるべゆらゆら』(No.61-a).

 

 

[1] もっとも、本作が前衛であったという認識はわたしのなかでは2年ほど前からあった。

[2]  柴田南雄、『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、216-314。

[3]  柴田南雄、『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、310-311。

[4]  柴田の「いま、何のために音楽をするか」によれば、本作は1979年度の芸術祭参加作品である。作品番号はNo.61-a。演奏者は以下のとおり。田中信昭 / 高橋大海 / 島尾ミホ / 矢野顕子 / 上杉紅童 / 東京土笛合奏団 / 山口保則 / 金井歌桜 / 坂本龍一 / 渡辺香津美 / 小原礼 / 山本秀夫 / 東京混声合唱団 / 石上神宮神職

[5] Fontecから発売されている『ふるべゆらゆら 柴田南雄作品集』によれば、本ライヴは1982年9月24日の、作曲者の「サントリー音楽賞」受賞記念コンサート東京公演第2夜(於:新宿文化会館)におけるものである。アルバムのライナーノーツには「1981年9月24日」とあるが、「いま、何のために音楽をするか」等の文献を参考にする限り、これは誤りである。出演者は以下の通り。田中信昭 / 島尾ミホ / 吉増剛造 / 上杉紅童 / 東京混声合唱団。

[6] 法政大学アリオンコールによるライヴ。法政大学アリオンコールのHPを参照したところ、第40回定期演奏会として1990年12月16日に上演されたことが確認できた。演奏者は以下のとおり。田中信昭 / 法政大学アリオンコール /桐朋学園大学 Terada Band。

40th teien of 定期演奏会

[7] なお、柴田いわく『大地幻想』『布瑠部ゆらゆら』等の案もあったらしい。

[8] 柴田南雄、「「こをろ」と「もゆら」」『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、8-10。

[9] 柴田南雄、『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、9-10。

[10] 吉増剛造、『わが悪魔祓い』(青土社、1974)。

[11] 柴田南雄、『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、310。

[12] ベネディクト・アンダーソン、白石さやほか訳、『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、(書籍工房早山、2007)。

[13] イ・ヨンスク、『「国語」という思想―近代日本の言語認識』、(講談社、1996)。

[14] 注13に同じ。

 

 

引用文献、参考文献

柴田南雄『日本の音を聴く』、青土社、1983。

吉増剛造『わが悪魔祓い』、青土社、1974。

イ・ヨンスク、『「国語」という思想―近代日本の言語認識』、講談社、1996。

ベネディクト・アンダーソン、白石さやほか訳『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、書籍工房早山、2007。

Fontec『ふるべゆらゆら 柴田作品集』ライナーノーツ、Fontec、1997。