間宮芳生:『オーケストラのための<地球のともだち>』

 

 今回は間宮芳生管弦楽作品を。

 『地球のともだち』は、そもそも1985年にピアノ連弾作品として作曲されたものらしい。ピティナに僅かながら作品紹介がされている。

 

enc.piano.or.jp

 

 管弦楽編曲されたのは、どうやら2002年のことらしい。大阪シンフォニカー交響楽団(現:大阪交響楽団)の委嘱とのこと。全6楽章形式で、各楽章の題もピアノ版と変わらないことから、わたしはピアノ版を知らないが、完全な編曲モノなんじゃないだろうか。

 

≪地球のともだち≫は、世界各地の民謡の旋律に基づいている。原曲は1985年作曲のピアノ連弾曲で、大阪シンフォニカー交響楽団委嘱シリーズ「21世紀の子どもの為に」の第1作として改作され、2002年12月6日にブカレストルーマニア国営放送局「ミハイル・ジョラ」大コンサートスタジオで初演された。第1曲の日本のわらべうた、第2曲はアフリカ・ウガンダの民謡、第4曲は韓国のふたつの民謡、第5曲はアメリカ・インディアンの古い民謡。こぐまの子守歌である第3曲と第6曲は、くどうなおこ作詞の作曲者自身の童謡の旋律である。[1]

 

 第4曲「ダニの歌」。途中に聴かれる3連符の上下する箇所、『日本民謡集』の「さんさい踊り」を思い起こさせる。

 

 


間宮芳生: 「やまのこもりうた」.『オーケストラのための<地球のともだち>』より.

 

 


間宮芳生: 「ダニの歌」.『オーケストラのための<地球のともだち>』

 

 


間宮芳生 / 内田るり子編: 「さんさい踊り」.『日本民謡集・第4集』.

 

 

 

 

 註:

[1] 石田一志による解説。財団法人アファニス文化財団、『日本のオーケストラ』、(財団法人アファニス文化財団、2003)、Disc4解説。61。

 

参考文献・サイト

財団法人アファニス文化財団『日本のオーケストラ』、財団法人アファニス文化財団、2003。

ピティナ『ピアノ連弾のための 地球のともだち』

ピアノ連弾のための 《地球のともだち》/Mates on the Earth for 4 hands - 間宮 芳生 - ピティナ・ピアノ曲事典

 

 

 

 

 

登理母都加比曾 ――高橋悠治: 『鳥も使いか』について

 

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高橋悠治(1938~)

 

弟、男淺津間若子宿禰命、坐遠飛鳥宮、治天下也。此天皇、娶意富本杼王之妹・忍坂之大中津比賣命、生御子、木梨之輕王、次長田大郎女、次境之黑日子王、次穴穗命、次輕大郎女・亦名衣通郎女御名所以負衣通王者、其身之光自衣通出也、次八瓜之白日子王、次大長谷命、次橘大郎女、次酒見郎女。九柱。凡天皇之御子等、九柱。男王五、女王四。此九王之中、穴穗命者治天下也、次大長谷命治天下也。

 

天皇初爲將所知天津日繼之時、天皇辭而詔之「我者有一長病、不得所知日繼。」然、大后始而諸卿等、因堅奏而乃治天下。此時、新良國主、貢進御調八十一艘。爾御調之大使・名云金波鎭漢紀武、此人深知藥方、故治差帝皇之御病。[1]

 

8月某日 三軒茶屋自宅

読響との演奏会終了。「鳥も」では指揮せず、銅拍子と鏧子など小道具を演奏し、曲名を言うだけなのに、特に銅拍子は本当にむつかしい。さわりを残さなければいけないと言われても、なかなかうまくいかない。無心になってやるものなのだそうだ。鏧子も、チーンとならせば良いのかと思っていたが、高い倍音を消すように、緩く向こう側に少し撫でるように叩かなければならない。われながら、煩悩の塊だと妙に実感する。

 

本番、本当に無心になって初めて銅拍子がとても美しく響き、さわりがいつまでも消えなかった。余りに無心になっていて、次に「島」というはずの題名を「鳥」と言い間違えてしまった。もう一生銅拍子は叩きたくない、と思っている。仏具はそれに見合った人格者が触らなければいけない。尤も、演奏は本條君が実に見事に歌い上げてくださったし、オーケストラも彼に美しく沿ってくれたから、全く文句をつけるところではない。自分自身の煩悩に嫌気がさしただけである。[2]

 

 美しいはなしだ。こんなんありか。

 仏教学なんか専攻していると、よっぽど宗教思想や信仰を疑ってしまうな。性分の問題でもあるんだろうけど、宗教に対する実直さは、幼かりし頃に較べれば、どんどん自分のなかから失われていっている気がする。

 

 高橋悠治氏の『鳥も使いか』。

 サントリーホールのサマーフェスティバルで聴いた一作から。杉山洋一/本條秀慈郎/読売交響楽団の演奏。08 / 26の回。

 先だって岩城宏之/高田和子/オーケストラ・アンサンブル金沢による録音を聴いていたが、実際にライヴで聴いたところ、録音から感じていた以上に詩的な作品だった。三弦の独奏にはじまり、徐々にオーケストラと、歌とが奏されていって、みるみる時間の層が現出していく。限りなく三弦が抒情的に聴かれるのは、楽器の魔力だろうか。伊福部昭は、楽器そのものが説得力をもちすぎるという理由から三味線を好まなかった[3]。作曲者の解説によれば[4]荒神琵琶≪妙音十二楽≫に触発されて編成は誕生した。妙音十二楽は、鹿児島県は中島常楽院で演奏される。指揮者が演奏する楽器はみな仏教儀礼の楽器で、いずれも妙音十二楽でも使用されるので、おそらく高橋悠治氏はそのまま採用したのであろう。

 

一柳: オーケストラと三味線の間に色いろはいってくる音楽の入り方なんかも、随分これまでにはない、非常に、そういう意味では新しい作品。と、その三味線の面白さですね、それで、まあはい、選んだんですけどね。

 

沼野: 高橋さんいかがですか、この曲については。この曲が選ばれたということについては。

 

高橋: 選ばれたことですか。

 

沼野: 選ばれたことだけへなくてもいいです。エピソードでも何でも構いませんけど

 

高橋: んー、まあ、三味線はねえ、えーと、2、3年習ったんですよね、高田さんに。それで、非常に伝統的な教え方だった。1対1で、1フレーズを3回一緒に弾き、4回目に1人で弾いてごらんと言われてやり、はい今日はそこまでっちゅーんで、そういうお稽古ですよね。そういうのやって、質問をしてはいけない、それでそのうちにね、何か質問したら、それはいけない、もう教えない、ってまあ、破門されたわけね。で、破門されたんだけど、まあ作曲だけは続けてて、だからまあ、ある程度弾けるようになったんだけど、まあ弾くのはそこ止まりになりましたね。だから、その曲ですか。その曲は、まああの九州に琵琶と合奏の曲があるんですよ。それの形をとったから。だから三味線がソロでなんかやると、小さい合奏がね、まあ独立した曲をやるわけ。で、そういう風な交代のやり方ってのあったのね。だからその形をとったわけです。

 

沼野: まさにそれがさっき 一柳さんが仰ったような、まあ、全体としてかなり自由なとか緩やかな形というか、私の勝手な感想ですけどこの鳥も使いかっていう曲を聴くと、あの、長く感じるんですよね。実際ではこのディスクでは16分50秒なんですけど、30分ぐらいの時間が過ぎたような感じがする。それは決してもちろん退屈だからということではなくて、何かそこの中にあるものの時間の感覚っていうのが普通の曲と少し流れてる時間が違う感じがするんですよね 。

 

高橋: んー、それはちょっと、わかりませんね。だけどまあ、指揮者がいて、指揮者は何もしない。で、まああのー、そこに挿入される小さい曲のタイトルを言うわけですね。言うとまあ楽器が勝手に初めて、指揮者の役割は始まることじゃなくて、止めることなんですね。だから打楽器で叩いて、それでその合奏を止めると。そういう役割。[5]

 

 この作品には唐突な不自然さに満ち溢れている。「笹葉」「あられ」「蛎貝」「島」「鏡」「幡」「弓」「鳥」「遠音」という、指揮者による小題の声がけと、指揮者のたもとに並べられた楽器――木鉦、銅拍子、磬子――の、突発的な演奏である。この不自然さはしかし、それまでの時の流れを明確に区切るためになされる合図ではなく――したがって、たぶん、高橋氏がいうような「止める」とは――、むしろ新しい流れを生むための効果を発するものである。それは西洋音楽的な沈黙の導入――休符の使われ方、テンポの変化――以上に力強い。その意味で、指揮者に課せられた振る舞い、すなわち打楽器を打つこととは、まさに「句読点」を打つことであり、『鳥も使いか』は詩なのである。

 

 『鳥も使いか』は『古事記』の充恭天皇の章で語られている木梨之軽王と軽大郎女、あるいは衣通郎女とも呼ばれている二者をめぐった物語が素材となっており、指揮者が口にする種々の呪のような語もまた、『古事記』の充恭天皇の章にみえる語句である。記に登場する語の順番と、指揮者が口にする語の順番は一致しない。以下に参照する。

はじめに、「笹葉」「あられ」。実の兄妹であるふたりが侵犯した直後に詠められた歌にみえる。

 

佐佐波爾 宇都夜阿良禮能 多志陀志爾 韋泥弖牟能知波 比登波加由登母

 

 これは普通「笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも」と下されている。なお、西郷信綱によれば、これは笹葉とは庭先の笹を言っているのではなく、猪名の笹原のことだという。

 くわえて西郷信綱によれば、ふたりの名前は、ふたりの犯した罪に由縁があるという。以下の西郷の解説は、この記事の最初に引用した『古事記』の物語によせた註である。

 

≪木梨之軽王≫ 軽は大和国高市郡の地名、既出。木梨は地名か梨の一種か不詳とされるが(記伝)、実の妹に密通した話が下にかたられている点からみて、キナシは柵無、つまり実の兄と妹との間をへだてる垣をふみ越え、それを無くするのにもとづく名に相違ない。木、柵、域のキはみな乙類の仮名にぞくし、意味も通じあう。…(略)…かくしてキナシノ王とは、実の妹をひそかに犯した物語とわかちがたい名であることが納得される。万葉に「刈り薦の、一重に敷きて、さ寝れども、君とし寝れば、寒けくも梨」(一一・二五二〇)、「大き海に、立つらむ波は、間あらむ、君に恋ふらく、止むときも梨」(一一・二七四一)という風に「無し」を借字「梨」であらわす例がいくつかあるのも、木梨=柵無とする説を支えてくれる。[6]

 

≪軽大郎女≫ 兄の軽王と対をなす名だが、兄の方だけに「木梨之」とあってここにそれがないのは、禁を破るにさいし妹は受動と見たからだろう。[7]

 

≪衣通郎女≫ 古今集の序にはソトホリヒメとあるが、記伝にしたがいソトホシと訓む。名の由来は細注に「身の光、衣より通し出づればなり」とする。つまりソトホシは絶世の美女の代名詞のようなものであり、さればこそ軽王もついに禁を破ったという文脈である。ところが紀の方では、充恭の后・忍坂大中姫の妹(名は弟姫)が容姿絶妙で「其の麗しき色、衣を徹して是なり。是を以て人、号けて衣通郎姫と曰ふ」とあって伝を異にする。[8]

 

つぎに、「島」「蛎貝」。

 

此三歌者、天田振也。又歌曰、

意富岐美袁 斯麻爾波夫良婆 布那阿麻理 伊賀幣理許牟叙 和賀多多彌由米 許登袁許曾 多多美登伊波米 和賀都麻波由米

 

此歌者、夷振之片下也。其衣通王獻歌、其歌曰、

 

那都久佐能 阿比泥能波麻能 加岐加比爾 阿斯布麻須那 阿加斯弖杼富禮

 

 「夏草の あひねの浜の蠣貝に」。西郷信綱はつぎのような解説を付している。

 

あいねの浜の蠣の貝殻に、足を踏みつけたりなさるな、私のところで夜の明けるのを待ってお出かけなさいという意。[9]

 

「鏡」と「幡」、「弓」。

 

故追到之時、待懷而歌曰、

 

許母理久能 波都世能夜麻能 意富袁爾波 波多波理陀弖 佐袁袁爾波 波多波理陀弖 意富袁爾斯 那加佐陀賣流 淤母比豆麻阿波禮 都久由美能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意母比豆麻阿波禮

 

又歌曰、

 

許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知 斯毛都勢爾 麻久比袁宇知 伊久比爾波 加賀美袁加氣 麻久比爾波 麻多麻袁加氣 麻多麻那須 阿賀母布伊毛 加賀美那須 阿賀母布都麻 阿理登伊波婆許曾爾 伊幣爾母由加米 久爾袁母斯怒波米

 

如此歌、卽共自死。故、此二歌者、讀歌也。

 

 

 そして、「鳥」。

 

故其輕太子者、流於伊余湯也。亦將流之時、歌曰、

 

阿麻登夫 登理母都加比曾 多豆賀泥能 岐許延牟登岐波 和賀那斗波佐泥

 

 だが、「遠音」という語だけはどうしても見えない。もしかしたら、作曲家が独自に追加した語なのかもしれない。狙いは読めないが、創作だとしたら秀逸だ。

 

三絃弾きうたいとオーケストラのための『鳥も使いか』(1993)は

1993年金沢で初演後 オーストラリア シンガポールの旅公演や 

他のオーケストラの共演もあった

 

  わたし自身も長い間組織の外で 手本のない道を歩いてきた(高田和子)

 

この協力関係は 平坦な道ではなかった

それまでの高田和子は 現代音楽作曲家たちの要求する超絶技巧を 

三絃という前近代の楽器で実現することのできた例外的なヴィルトゥオーゾだった

だが いっしょに探求したのは 楽器と伝統をさかのぼり

ありえたかもしれないが じっさいには存在しなかった

音楽の別なありかたを見つけること

 

20世紀音楽の 神経症的な速度や複雑な運動ではなく

繊細な音色の差異と 

拍節構造のような 外側からの規律ではない 

身体感覚にもとづく時間

モデルの断片を即興的に組み替えながら

他の楽器との関係をその場で創ること

 

これは 現代邦楽とは逆方向の道

現代音楽の制度からも外れていた

共演はしても 雅楽や声明でもなく 

どのシステム どのジャンルにも入れない音楽

 

しかも この冒険をつづけながらも

そこだけで閉じてしまわないように

まだ 制度に組み込まれていない 若い作曲家や演奏家をみつけて

それぞれが ちがう場に出ていく時もある

危うい同意のバランスの上で 逃亡しては また惹き付けられる

揺れうごく関係の磁場[10]

 

 

 

註:

[1]古事記』。記事に登場するほかの漢文も。

[2] 杉山洋一「しもた屋之噺(224)」http://suigyu.com/2020/09#post-7008

[3] ラジオ「現代の音楽」1975年10月24日回のトーク

[4] 以下に収録。サントリーホール『サマーフェスティバル2020プログラム』、(サントリーホール,2020)。

[5] DOMMUNEでのプレトーク。2020/08/19 WED19:00–24:00。筆者が独自に書き起こしたもの。

[6] 西郷信綱、『古事記注釈 第四巻』、(平凡社、1989)、243—244。

[7] 西郷信綱、『古事記注釈 第四巻』、(平凡社、1989)、244。

[8] 西郷信綱、『古事記注釈 第四巻』、(平凡社、1989)、244—245。

[9] 西郷信綱、『古事記注釈 第四巻』、(平凡社、1989)、273。

[10] 高橋悠治「花筐――高田和子を悼み」http://suigyu.com/noyouni/yuji_takahashi/post_900.html

 

参考文献、引用文献など:

サントリーホール『サマーフェスティバル2020プログラム』(サントリーホール,2020)。

西郷信綱古事記注釈 第四巻』(平凡社、1989)。

杉山洋一「しもた屋之噺(224)」http://suigyu.com/2020/09#post-7008

高橋悠治「花筐――高田和子を悼み」http://suigyu.com/noyouni/yuji_takahashi/post_900.html

倉野憲司『古事記』(岩波書店、1963)。

前衛について ――柴田南雄の『布瑠部由良由良』

 

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柴田南雄(1916~1996)

 

 前回の投稿で前衛について考えはじめたわたしは、20世紀の音楽作品、とくに日本の作曲家の作品で前衛といいえるものはなにか、という――「自分が思うアヴァンギャルド」とはなにか、という課題をさらに深化させた――問いに対し、たとえば柴田南雄の『布瑠部由良由良』など、極めて前衛的なのではないか、と思った。なぜなら、本作は前衛らしさをたたえた力強い説得力と、政治性、倫理性を確保している――まさに前衛作品だと考えられるからである[1]

 

 本作については柴田による論「いま、何のために音楽をするのか」に詳しい[2]。これによると、本作はNHKの「古典芸能番組班」(当時)のプロデューサーである下田秀夫氏からの依頼を契機に構想されたという。下田氏は柴田に「古代楽器や複製品との声の出会いの場を幻想的に現出するような作品」を頼み、この指示を受けた柴田は、最終的に『布瑠部由良由良』の構成をつぎのようにまとめている。

 

 

『布瑠部由良由良』の創作意図は大略次のようである。現在という時点で、日本のさまざまな地点で、多種多様な<ニホンゴ>が行われていることは、われわれの想像以上である。いわゆる標準語(東京方言)、文学者の個性的文体、翻訳詩、神社やお寺の祭祀の詞章……。しかも、これらには、その起源に応じた歴史的な層序を認め得る。たとえば南島方言が古代の標準語と多くの共通点を有していることはよく知られているし、社寺の用語にも古形が少なくない。つまり、われわれの言葉を形造ってきた言語層のさまざまなレヴェルが、地理的、文化的に拡散して、現代にも生きつづけているのであるが、それは同時に、日常の言語という表層に覆われているわれわれの言語の深層でもある。この作品は、それら幾つかの出会いの場所である。それらは、われわれにどのように作用するであろうか。

 また、それら言語に伴う旋律や楽器にも、当然のことながら歴史層序は存在する。とくに近年は縄文・弥生の石笛、土笛、琴などの出土品が多く、それに銅鐸をも加えて歴史的言語との幻想の場を作った。[3]

 

 なお、『布瑠部由良由良』はNHKのラジオ放送が初演であり[4]、『古代楽器と声による「ふるべゆらゆら」』と名づけられている。もっとも、柴田は着想の段階からライヴ上演の可能性も見越して作曲しており、1982年のライヴでは『ふるべゆらゆら』[5]、1990年のライヴでは『布瑠部由良由良』と表記されており[6]、変遷がうかがえる[7]。本稿では、「いま、何のために音楽するのか」において一連の作品を<布瑠部由良由良>として柴田はまとめているので、これにしたがった。

 

 ところで、柴田南雄は言葉と音との関係を重視していた。本書の最初に収録されている評論「「こおろ」と「もゆら」」からも、こういった態度を窺うことができる[8]。この評論において柴田は、『古事記伝』にみえる、水をかき混ぜる音のオノマトペ(こをろこをろ)と、飾り物が擦れ合う音のオノマトペ(もゆらもゆら)――いってみれば古代のオノマトペと、「ドボドボ」「ジャラジャラ」といった今日的なオノマトペの対比をはかっている。

 

 しかし、kowoloといいmoyulaといい、なんと悠長で、大らかで、みやびやかな擬声語であろう。悠長さや大らかさは、どちらも三音節、つまりゆとりある三拍子であることと、子音に騒音の要素がなく、母音ともども軟らかい響きであることから来ている。「ドボドボ」「ジャラジャラ」はどちらも二音節で、しかも騒音じみて殺風景だ。こちらは要するに、現代の音であり、言葉である。[9]

 

 

 『布瑠部由良由良』で様々なレヴェルの言葉が呈示されるのと同時に、音がまた重要な位置を占めているのはこのためである。

 

 本作では多種多様な日本語と日本の音とが素材に扱われるが、ラジオ放送版の『古代楽器と声による「ふるべゆらゆら」』を例に取れば、つぎのようである。

A.古代の日本語と古代の音楽。

・古代の日本語: 「布瑠部由良由良」の祓詞と「手の術」。奈良県天理市石上神宮に伝わる死人返りの呪文。作品のタイトルにも使われている。石上神宮で崇められる布留御霊は、建御雷の化身で、『古事記伝』においては、あの有名な熊野における神武のエピソードに登場する神である。ちなみに、筆者は当社の崇敬会の一員だが、それなりの貢献をみせると、年に一度開催されているセミナーに参加することが可能らしく、「布瑠部由良由良」の呪法を授かることができる。「手の術」は「ひふみよいむなや…」の詞である。

・古代の音楽: 古代楽器。石笛、土笛、古代琴、銅鐸。笛類と銅鐸に関しては演奏家の上杉紅童氏や國學院大学の考古学資料館の協力を得ており、琴は福岡県沖ノ島の祭祀跡地からで採掘された金銅製の琴のミニチュアと、修猷館高校の学生が復元した弥生時代の琴とを使っている。

 

B.現代の日本語と現代の音楽

・現代の日本語: 吉増剛造氏の現代詩「地獄のスケッチブック」が採用されている。これはわたしが吉増剛造氏御本人様からお伺いした話だが、柴田南雄に吉増氏を紹介したのは安原顕氏だったそうだ。両者ともに文芸誌『海』に携わられていたので、編集者の安原氏が柴田に吉増氏を紹介したらしい。「地獄のスケッチブック」は『わが悪魔祓い』に収められている[10]。ラジオでは高橋大海氏が朗読しており、1982年のライヴでは詩人御本人が登壇している。

現代の音楽: ロック。柴田南雄本人による作曲。しかし、ラジオ放送に際しては坂本龍一氏が編曲している。坂本氏は柴田南雄の教え子である。なお、矢野顕子氏もこの録音に参加している。

 

以上のAとBが中心素材で、このほか以下が素材に扱われている。

 

・声明「散華」「神名帳」: 東大寺十一面観音悔過で唱えられる声明。「散華」は智昇の『集諸経礼懴儀上巻』に寄っており、「神名帳」は東大寺独自の文句である。ラジオ版では高橋大海氏がつとめられている。

・民話「鬼と四人の子ら」、「てんぽ物語」: 「鬼と四人の子ら」は奄美加計呂麻島の民話。島尾ミホ氏(島尾敏雄氏のご婦人)の声に心を打たれた柴田南雄は、島尾ミホ氏に声の出演を懇願したという。「てんぽ物語」は津軽の民話で、東京混声合唱団の森一夫氏が朗読をつとめている。

・翻訳詩: ボードレール作、福永武彦訳「秋の歌」。小編成の混声合唱

・リコーダー演奏: 琴(弦楽器)の対置がエレキギター、銅鐸(打楽器)の対置がドラムなので、石笛・土笛の対局と思われる。

 

 『布瑠部由良由良』はなぜ前衛といいえるのか。

 まず、その迫力に圧倒される。石上神宮の呪文や仏教音楽が感じさせる呪術性、無調の合唱曲、古代の息吹を生々しく表現する縹渺とした笛の音、キッチュな気分をたたえた、陽気で、どこかヒステリックなロックミュージック…。これらが同時に設置された世界は、作曲者の思惑通り、極めて幻想的である。そればかりか、ユーモラスでエモーショナルなのである。わたしはこの作品を法政大学アリオンコールのライヴ録音で初めて知ったが、銅鐸や琴の音にあわせて呪文が唱えられたかと思えば、唐突にドラムのステッキがリズムを刻み、荒々しい(しかもダサい)ロックが演奏される様子には虚を突かれたようであった。しかも、その背後で神道の祓詞が絶えず奏されているのである! 「前衛」という雰囲気を顕著に感じさせられたものである。

しかし、実はこの作品は十分すぎるほど政治的かつ倫理的なのである。柴田自身によるコンセプトを再度参照してみよう。

 

『布瑠部由良由良』の創作意図は大略次のようである。現在という時点で、日本のさまざまな地点で、多種多様な<ニホンゴ>が行われていることは、われわれの想像以上である。いわゆる標準語(東京方言)、文学者の個性的文体、翻訳詩、神社やお寺の祭祀の詞章……。[11]

 

重要なのは、柴田の作品が大文字の<日本語>という虚構性を指摘する装置として機能する可能性を帯びている点、換言すれば、<国語>をめぐる問題として起ちあがる点である。

国語という概念の誕生は、わが国においては日清戦争を契機としたナショナリズム化に伴っての出来事であった。本格的な議論は明治35年の国語調査委員会でなされ、会長を加藤弘之に、主事を上田万年に置き、前島密等を構成員としている。余談だが前島密は言文一致の苛烈な推薦者であり、西周にならぶほどの漢字廃止論者でもあった――漢字廃止の旨を徳川慶喜に建白しているほどである――。

国語とは近代国家の象徴である。それは歴史上はじめて国語という制度、概念が誕生したきっかけがフランス革命にあり、エリートたちが国民の精神を結託させる装置として開発した経緯からいっても明らかであろう。かつてベネディクト・アンダーソンが述べたように、言語は<想像の共同体>を構築するのである[12]。日本が明治期になって国語を拵える必要性に駆られたのも、まさに日本を「近代国家」に位置づけようとするためであった。もっとも、イ・ヨンスクが的確に言及しているように[13]、日本においては国語の完成に先立つ――国語の基盤となる――日本語それ自体の多様性が不安定なまま、国語の構築が目指された。したがって、国語それ自体かなり曖昧かつ暴力的であるのに、ことわが国においては猶更その向きをもつといえる。

柴田南雄の『布瑠部由良由良』は、まさにこうした国語という虚構に打撃を与えうる装置なのである。一神教的、父的な大文字の概念としての「国語」が孕む不安定性を、現実的現象によって本作は砕く力を本作は秘めている。したがって『布瑠部由良由良』の場はしたがって怖ろしいほどにアノニマス的に聴こえるが、実態は確固たる理論に裏打ちされた、極めて政治的で倫理的な機能が作用する作品なのである。

そして、あらためていうまでもなく、国語という概念に対する作品の打撃は、国語を想定する人びと、イ・ヨンスク流にいえば、日本でおこなわれる言語の同一性を信仰する人びとへの打撃でもある。

 

今、「日本」という政治的・社会的空間に住むあらゆる人々が、何よりもまず、「ひとつの日本語」を話していると信じなければ、概念としての「国語」など成立するはずもない。いうまでもなく、現実の言語にはさまざまな地域的・階層的。文体的変異がかならずある。しかし、そうした変異性がいかにばらばらなものであったとしても、それをまさに「変異」として把握できるのは、背後に共通で同一の尺度があるからこそである。つまり、「国語」の成立にとって、もっとも根本的なのは、現実には、どんなに言語変異があったとしても、それをこえたゆるぎない言語の同一性が存在する信仰をもつかどうかである。現実の言語変異は二次的なものであり、想像される「国語」の同一性こそが本質的のものだという言語意識が、絶対に必要なのである。[14] 

 

『布瑠部由良由良』は歴史性と地理性とが混沌とした状態の場所として、観客の前に、あるいは演奏者の周辺に出現する。それはエモーショナルな音楽であるにもかかわらず、粘り強いコンセプトとともに完成された一個の世界、まさしく前衛なのである。柴田の音楽作品は、常に時空間との対話であった。たとえば『ゆく河の流れは絶えずして』では音楽技法によって音楽史の軌跡が表現されているし、『宇宙について』では地理と時間とが重要な意味性を帯びている。だが、実はこのような営みは、すでに『追分節考』にもうかがえた性格なのである。そして『追分節考』の真価は、J.ケージのイヴェントやK.シュトックハウゼンラウム・ムジークなど、当時の先鋭技法と民俗音楽とを接続することにあったわけでは、おそらく、ない。むしろ、上原六四郎を象徴に位置づけた、当時の楽壇アカデミズムへの批判こそ重要なのである。したがって『追分節考』の価値が共時的なかたちでしか輝かない危険性を孕むことが認められつつも、柴田の作品が政治的かつ倫理的であるという態度は、この作曲家にしばしばみられる個性であり、それゆえに柴田南雄を前衛に位置づけうると考えるのだ。

 

 

 


柴田南雄: 『ふるべゆらゆら』(No.61-a).

 

 

[1] もっとも、本作が前衛であったという認識はわたしのなかでは2年ほど前からあった。

[2]  柴田南雄、『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、216-314。

[3]  柴田南雄、『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、310-311。

[4]  柴田の「いま、何のために音楽をするか」によれば、本作は1979年度の芸術祭参加作品である。作品番号はNo.61-a。演奏者は以下のとおり。田中信昭 / 高橋大海 / 島尾ミホ / 矢野顕子 / 上杉紅童 / 東京土笛合奏団 / 山口保則 / 金井歌桜 / 坂本龍一 / 渡辺香津美 / 小原礼 / 山本秀夫 / 東京混声合唱団 / 石上神宮神職

[5] Fontecから発売されている『ふるべゆらゆら 柴田南雄作品集』によれば、本ライヴは1982年9月24日の、作曲者の「サントリー音楽賞」受賞記念コンサート東京公演第2夜(於:新宿文化会館)におけるものである。アルバムのライナーノーツには「1981年9月24日」とあるが、「いま、何のために音楽をするか」等の文献を参考にする限り、これは誤りである。出演者は以下の通り。田中信昭 / 島尾ミホ / 吉増剛造 / 上杉紅童 / 東京混声合唱団。

[6] 法政大学アリオンコールによるライヴ。法政大学アリオンコールのHPを参照したところ、第40回定期演奏会として1990年12月16日に上演されたことが確認できた。演奏者は以下のとおり。田中信昭 / 法政大学アリオンコール /桐朋学園大学 Terada Band。

40th teien of 定期演奏会

[7] なお、柴田いわく『大地幻想』『布瑠部ゆらゆら』等の案もあったらしい。

[8] 柴田南雄、「「こをろ」と「もゆら」」『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、8-10。

[9] 柴田南雄、『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、9-10。

[10] 吉増剛造、『わが悪魔祓い』(青土社、1974)。

[11] 柴田南雄、『日本の音を聴く』、(青土社、1983)、310。

[12] ベネディクト・アンダーソン、白石さやほか訳、『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、(書籍工房早山、2007)。

[13] イ・ヨンスク、『「国語」という思想―近代日本の言語認識』、(講談社、1996)。

[14] 注13に同じ。

 

 

引用文献、参考文献

柴田南雄『日本の音を聴く』、青土社、1983。

吉増剛造『わが悪魔祓い』、青土社、1974。

イ・ヨンスク、『「国語」という思想―近代日本の言語認識』、講談社、1996。

ベネディクト・アンダーソン、白石さやほか訳『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』、書籍工房早山、2007。

Fontec『ふるべゆらゆら 柴田作品集』ライナーノーツ、Fontec、1997。

前衛について ――サントリーホールサマーフェスティバル<2020東京アヴァンギャルド宣言>から

 サントリーホールサマーフェスティバル2020が終わった。

 わたしは08 / 23の後半の回と、08 / 26の回、そして最終日である昨日の回の、聴衆のひとりとしてこの前衛の祭典に参加させていただいていた。お名前は存じ上げていたけれど作品に関しては・・・という作曲家も少なくなかったので、それだけでもフェスティバルの参加は有意義であった。

 

www.suntory.co.jp

 

 印象深かったのはシュトックハウゼンの『「クラング―1日の24時間」より 13時間目「宇宙の脈動」電子音楽のための』(2006~2007)、高橋悠治氏の『鳥も使いか』(1993)、同じく『「オルフィカ」オーケストラのための』(1969)、杉山洋一氏の『「自画像」オーケストラのための』(2020)だったのだが、各作品によせる感想はまた別の機会に書こうと思う。ただ、前もっていわせていただければ、どれも示唆に富む作品群であった。改めて聴きたい作品ばかりなので、発売化を心から望むところである。

 

 さて、実は、08 / 26の演奏――高橋悠治氏、山根明季子氏、山本和智氏の作品が上演された――を聴き終えたわたしは、その帰り道、素晴らしい充実感に浸りながらも、同時にまた巨大な疑問符に自分の頭を擡げさせられていた。そしてその疑問符は今日の回を聴いて、さらなる膨張をみせた。それは、極めて単純な問いでありながらも、まさにこの問いへ果敢に挑戦するためにこそフェスティバルの存在意義はあるとさえいえるであろう、「前衛とはなにか」という疑問である。もっとも、こういった問いを聴衆に抱かせる狙いを一柳慧氏は見据えていただろうから、わたしは格好の、実に凡庸な観客なのかもしれない。

 わたしはいくつかの作品に対し、「これはアヴァンギャルドなのか」という不審を抱いた。だが、即時にいってこのような感想は疑われねばならない。「自分が思うアヴァンギャルド」との不一致から生じた印象である可能性を否定しえないからだ。ゆえに「今日的な意味の前衛とはなにか」を(音楽にはズブの素人の身分であっても観客として参加した身分から)考えたいのだが、それはまた後日にまわし、そこへ行く前に自分が思う前衛とはどんなものか、という問いを考えておきたい。たぶん、わたしが抱く<前衛>の印象は決して個人の次元に留まらない、つまり、ある程度一般的な印象――前時代的で、やや古めかしい雰囲気を持つという印象――であると考える。ゆえに、今日的な前衛を検討するうえで有意義であろうと思うのだ。

 

 おそらく、前衛という語から誘発されるのは、「破壊」や「政治」、「倫理」というイメージではないだろうか。大文字の「常識」なるものをぶち砕き、反社会的、反体制的、アンモラルな行為さえ厭わないような強烈な思想と実践。たとえば、つい最近、川島素晴氏の企画によってわずかながらも脚光を浴びたE.シュルホフは[1]、まさしく前衛の音楽家だったと個人的には思う。それはふたつの理由によってである。ひとつは、クラシカル、無調、微分音、ジャズ、民謡、無音、ポルノ、イヴェント的な要素を稀代の怪盗的センスとユーモアによって自在に組み合わせたシュルホフの音楽は、まったく前衛というイメージを喚起させるような力に満ち溢れたものばかりであろう。前衛芸術には、極めて苛烈な説得力が宿っているものだ(ストラヴィンスキーしかり、ブーレーズしかり、リゲティしかり、シュトックハウゼンしかり、ポロックしかり、ラウシェンバーグしかり、ヒルシュホーンしかり…)。

 


String Quartet No. 2: I. Allegro agitato

 

 

 


Erwin Schulhoff - Sonata Erotica for female voice solo (1919)

 


Erwin Schulhoff : In Futurum, Part III from 5 Pittoresken (1919)

 

 こういう言説は、杉山洋一氏や松平敬氏が述べられているような[2]、1950~60年代の前衛が前衛なのだ、といった漠然としたイメージをもっていたという話と、ある程度同一だろうと思う。

 

 だだ、シュルホフを考えるうえで、シュルホフの芸術家としての思想がダダイズムと関連している点を看過することはできない。ダダイストは野蛮な破壊者ではない。第一次世界大戦を契機に疑われたデカルト的理性への批判者である――実際、シュルホフは兵役を経て反戦思想を色濃くする――。ダダイズムの思想は、戦争体験にもとづく絶対的理性や秩序の脆さ、あるいは虚構の発見にはじまるのであり、そしてその実践においては、まったく芸術的な手法をもっておこなわれたのである。ゆえに、ダダイストは政治的かつ倫理的と言い得、ダダイストであったシュルホフが前衛であるとは言いえるのである[3]。同じ意味で、未来派の宣言――F.T.マリネッティの苛烈な銘文は前衛である。「咆哮をあげて、機関掃射の上を走り抜けるような自動車は「サモトラケのニケ」より美しい」[4]! したがって、前衛芸術における破壊的行為とは、単なる無差別な破壊ではなく、正にそうしなければならない方法だったのだ。目的が政治と倫理に裏打ちされ、また、結果においても政治と倫理が関与する。これこそが前衛と呼ばれるべきものであろう。

 

 しかし、こういったアヴァンギャルド観は極めて「時代的」であろうし、この立場から今日の前衛を批判したり考察したりしたところで、せいぜい懐古か憧憬、無意味な議論にしかならないであろう。むしろ、公演に先立って開催されたプレトークにおいて一柳慧氏が言っていたように、アヴァンギャルドがかつてのようなものであっては、すでに退廃しつつある音楽は再生しないであろうし、過去を超克しえまい。とはいえ、新しい前衛の様態が、果たして<自然的>なもののか、音楽が人間の営みであることの必然性への問いなのか、身体への接近なのか。それは未明ながら、サマーフェスティバルが前衛に対し意義ある企画であったことは言うまでもない。

 

 

[1] 川島素晴氏による企画公演。<川島素晴 plays... vol.2 “無音”>。川島素晴氏オフィシャルブログ。無音0)川島素晴 plays... vol.2 “無音” を8/1に開催致します | 川島素晴 -Action Music-

[2] ONTOMO記事。「アヴァンギャルドな音楽とは何か。一柳慧、杉山洋一、松平敬がコロナ禍に伝えるカタチ」。アヴァンギャルドな音楽とは何か。一柳慧、杉山洋一、松平敬がコロナ禍に伝えるカタチ|音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」

[3]  よく知られているように、シュルホフは退廃芸術家として強制収容所に収監され、そこで命を落とす。「退廃芸術」という観点から芸術的価値を見出そうとする向き――体制側に抑圧されたことが前衛の証であるとする向き。もっとも、これは音楽に限らない――もあるようだが、わたし自身はこの立場にないことを念のために明言しておく。

[4]  F.T.マリネッティ未来派宣言」(1909).以下から引用した。ヘレン・アームストロング編著、小川浩一訳、『GRAPHIC DESIGN THEORY グラフィックデザイナーたちの理論』(BNN、2007)54。

 

 

 

 

 

 

 

廣瀬量平の笛

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廣瀬量平

 

 

 

 作曲家の廣瀬量平さんは、おもしろいことに気がついた。それは要旨、つぎのようなことである。

 ――石笛は古神道で神霊を招きよせるのに使われた。能楽を、そうしたシャーマニズムの儀式の芸能化したものとしてみることは可能だが、まさに能において神霊が出現する時に吹かれる能管の鋭い音、とくにヒシギという最高音は石笛の音とそっくりだ。――

 これは彼の卓見というべきであろう。両者は内容的にも、音色的にも酷似している。とくに能管には、ノドといってわざと歌口と指孔の間に狭窄部が作ってあり、そのために篠笛やフルートのように正確なオクターヴが出ず、調子はずれになる。だから、能管は他の楽器と合奏することはできないし、謡との間も、つかず離れずの関係で進む。この不正確な音調の具合が石笛とよく似ている。わたくしは水戸の関さんの笛の音を実際に経験していよいよ廣瀬説を支持したくなった。

 

柴田南雄

日本の音を聴く ―― 四 石笛と能管【1】

 

 


Ryohei Hirose : Meditation (1975)

 

 

 

 

 

 

 

 

間宮芳生『合唱のためのコンポジション 第6番』第1楽章と第2楽章の素材確認

 

 長年日本の作品を歌いつづけて来た法政大学アリオン・コールの為に男声合唱を是非との私の頼みに、彼はニコリとして「今度は六番だから田園だな」と答えて呉れた。・・・

 翌1968年5月26日、学生達は熱演―初演は成功した。会場のあちこちでこんな声が聞かれた。 「今までのコンポジションとはちがう――。」「間宮芳生がこの曲を契機に大きく飛躍した――。」

 

田中信昭

解説【1】

 

 

 これまでは、新しい素材に湧き立ち、そこから必然的に出て来る技法の開拓に、常に新鮮な意図を盛り込んでいた。「第六番」とて、新しい可能性への実験という意味では、決してこれまでとは違っていないが、その目指すところが、何か或る固定した目標を持つように思えるのが「第六番」である。

 

小泉文雄

解説【2】 

 

 

 

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渡辺暁雄氏らと話す間宮芳生氏(右から2人目)

 

 

 予告通り、間宮芳生氏の作品を取りあげる。

 『ニホンザル・スキトオリメ』の公演を皮切りに、再び脚光を浴びている間宮氏の仕事は、いうまでもなく多大である。記事を作成するにあたって書くことに色々と悩んだが、『合唱のためのコンポジション 第6番』(『男声合唱のためのコンポジション』)より、第1楽章と第2楽章の素材の確認をすることで落ち着いた。

 本作はつい最近にお江戸コラリア―ずさんが定期演奏会でとりあげられたし、個人的に好きな作品のひとつだからである。第3楽章をとりげなかった理由は、本楽章の素材となった兵庫県は亀岡八幡神社の芸能、大分艪囃子、木場のかけ声の情報を集められなかったためである。従って、「とりあげたくてもとりあげられなかった」といった方が正確なのだが、いずれこちらも付記するつもりでいる。また、第1楽章の素材として扱われた岩手県稗貫郡亀ケ森村の田植踊に関しても、小泉文夫氏の採譜のみしか見つけられなかったことを、予めおことわりさせていただく。

 

 

 

 第1楽章は岩手の稗搗唄、掻田打の唄がモティーフにある。

 「稗搗唄」と検索をしてみれば、本作にまつわる情報ばかりがでてきてしまうが、これを「稗搗節」としてみると。

 

 

稗搗節
ひえつきぶし

 

九州地方の代表的民謡。宮崎県東臼杵(うすき)郡椎葉(しいば)村で歌われてきた。本来は、焼畑のヒエ畑から穂先だけを刈り取り、木の臼(うす)に入れて杵(きね)で搗(つ)いて脱穀するときの仕事唄(うた)である。ヒエを常食してきた農村のなかには、たとえば岩手県の北上山系地帯や熊本県の山地のように、ヒエを搗くおりの仕事唄がいまも残っているという。宮崎県の椎葉村でもヒエやアワを栽培し常食としてきた。冬の農閑期に親しい者同士が一つ家に集まり、ヒエを搗きながら唄を歌う。男女が集まれば恋の唄の掛け合いとなる。椎葉村のこの仕事唄は、ダム工事に村に入った工事関係者たちから広められ、1953年(昭和28)レコードに吹き込まれてから全国的に普及した。とりわけ那須(なす)大八郎と鶴富(つるとみ)姫とのロマンスを盛り込んだ歌詞は、若い人たちにも受け、秘境の観光宣伝とともに、訪れる人たちの口からもほうぼうへ広められていった。

 

コトバンク【3】

 

 

 間宮氏が素材に扱ったのは、正にこの文中にある北上の仕事唄にほかならない。

 以下、採譜されたものを付す【4】。

 

 

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和賀郡岩崎村 稗搗唄

 

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和賀郡江釣子村 稗搗唄

 

 

 『日本民謡大観 東北篇』をみると、実に岩崎(北上市)の稗搗唄というのはいろいろあって、「〽此處らでは、稗搗き手間に」とはじまるものもある【5】。間宮が中心的に扱ったのは「〽お前達」からはじめる稗搗唄で、 本に意訳が載っていたので、下に記す。

 

〽 お前達、稗搗く中ばり(ばかり)チャヂャコ(お世辞を云ふ)だてよ 〽 搗いてしまへば、アバエまた來よ、カラキタ(戸を閉めてしまう)とよ

 

【6】

 

 

 稗は丈夫で、しかも長期的な保存が可能となるので、冷害に見舞われやすい土地では重宝されるという。岩手県北上市は稗の名産地だから、このような仕事唄が作曲されたのであろう。本によると、麦の収穫の仕事唄に転用してもいるという(現在も同様であるかは、わかりません)。

 最後に、曲の後半に登場する岩手県稗貫郡亀ケ森村(現在は花巻市に合併)の田植唄の採譜を付す【7】。未だこの民謡については調査中なので、今後、情報を得次第、追って記すつもりでいる。

 

 

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稗貫郡亀ケ森村 田植踊 掻田打の唄

 

 

 


第1楽章 - 『男声合唱のためのコンポジション 2』(第95回定期演奏会)

 

 

 第2楽章は冗談抜きに国際的に歌われているようだ。特に北欧。スウェーデンの王立合唱団Orphei Drängarも歌っているし【8】、エストニアだろうか? なにかのコンクールで一般団体が歌ってる動画がyoutubeに挙がっていた。

 

 


Michio Mamiya "Composition for Chorus 6:2"

 

 

 相沢直人氏も海外で演奏されていたし【9】、国内外を問わず演奏されているわけだ(第2楽章に限るが)。

 素材は青森県八戸の神楽権現に依ったという。

 

 


法霊神楽 権現舞 実写(青森県八戸市)

 

 

 前掲『日本民謡大観 東北篇』に採譜されたものが載っていたので、下に付す【10】。

 

 

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青森県八戸市 八戸神楽 権現舞



 本によると、八戸神楽は土地では単に「権現舞」と呼ばれているらしい。三戸郡上長苗代村に住まう、矢澤、大佛、笹野澤の三家が組織しているらしい。舘村(現在は廃村)の櫛引八幡宮や、八戸湊町に鎮座する大祐神社 に奉納されるという【11】。

 

 


第2楽章 - 『男声合唱のためのコンポジション 2』(第95回定期演奏会)

 

 

 以上、情報に偏りができてしまったが、今回はここで記事を終えることにする。

 間宮芳生氏の作品は今後もブログで記事にさせていただくつもりでいる。つぎに扱うとしたら、『合唱のためのコンポジション 第3番』あたりだろうか・・・・。また、再三繰り返してきた通り、新しい情報が得られ次第、付け加えていきます。

 

 


合唱のためのコンポジション第6番 1968(初演)

 

 

 

1 間宮芳生『明治百年記念芸術祭参加 MICHIO MAMIYA COMPOSITIONS FOR CHORUS 1956~‘68』(以下、『MICHIO MAMIYA COMPOSITIONS FOR CHORUS』)(ビクター 1968年)解説書P37より引用。

2 前掲『MICHIO MAMIYA COMPOSITIONS FOR CHORUS』解説書P36より引用。

3 稗搗節(ヒエツキブシ)とは - コトバンクより引用。

4 日本放送協会日本民謡大観 東北篇』(日本放送協会出版 1992年)P93、および、前掲『MICHIO MAMIYA COMPOSITIONS FOR CHORUS』解説書P36に掲載された楽譜を参考に、作成した。

5 前掲『日本民謡大観 東北篇』P36を参照されたい。

6 前掲『日本民謡大観 東北篇』P36より引用。

7 前掲『MICHIO MAMIYA COMPOSITIONS FOR CHORUS』解説書P36に掲載された楽譜を参考に、作成した。

8 Orphei Drängarのアルバム『Daiamonds』(BIS 2003年)に収録。ちなみに、Orphei Drängarは『合唱のためのコンポジション 第3番』第一楽章も歌っている。

 

 


Orphei Drängar 合唱のためのコンポジション第3番〜Ⅰ. 艫

 

 

9 2018 Busan Choral Festival & Competitionにて、相沢氏はAZsingersを率いて演奏した。

 

 


2018 Busan Choral Festival & Competition / OCT 19 Classical Equal / AZsingers

 

 

10前掲『日本民謡大観 東北篇』P66に掲載された楽譜を参考に、作成した。

11前掲『日本民謡大観 東北篇』P66を参照されたい。

 

 

参考文献

間宮芳生『明治百年記念芸術祭参加 MICHIO MAMIYA COMPOSITIONS FOR CHORUS 1956~‘68』(ビクター 1968年)

間宮芳生『現代音楽の冒険』(岩波書店 1990年)

日本放送協会日本民謡大観 東北篇』(日本放送協会出版 1992年)

 

 

 

 

讃美歌のたのしみ : イーゴリ・ストラヴィンスキーの『Otche Nash』

 

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ストラヴィンスキー


 

 東京の祖母の宅に邪魔をしている。

 小さなリビングには母がむかし愛用していたアップライトピアノが置いてあって、訪ねたときはいつも、何時間もそれで「遊んでいる」。祖母はピアノの音をいっこうに気にしないので、いつまでもピアノの前にいられるのである。

 東京といっても埼玉に近い方にあって、窓から顔を覗かせれば、西武線の線路が見える。いまも電車が数分おきに右から左に、あるいはその逆の方に走り交っている。

 

 ピアノでよく弾く合唱曲がある。

 イーゴリ・ストラヴィンスキーの『Otche Nash』である。

 


Igor Stravinsky - Pater Noster - Отче Наш (Otche Nash - Church Slavonic)

 

 「ストラヴィンスキーといえば『春の祭典』(のエピソード)」。という感が些かあるが、実は合唱作品もそれなりに手掛けている。しかも、宗教色の濃い合唱作品が多い。

 

 

生存をかけた戦いの要となる作品に宗教的題材を選択したことは、彼の私生活と個人的な感情にも基づいている。1924年に自作の《ピアノ・ソナタ》(1924)を公共の場で演奏するにあたり、右手の激痛に苦しんだが、神への祈りによって快癒した。このことがきっかけとなり、反抗期から一時背けていた宗教世界を見つめ直し、信仰心を取り戻した。

 

池原舞

ストラヴィンスキーと《詩編交響曲

―鎧を着た戦士の戦い【1】

 

 

 『Otche Nash』もそうしたキリスト教典礼曲で、ラテン語で「Peter Noster」と訳される。しばしば「我らの父」「主祷文」と邦訳されるようである(この典礼文については和田朗氏のブログhttp://www2.odn.ne.jp/row/sub2/seika/seika_01.htmに詳しい)。

 ストラヴィンスキーは幼少時に体験したスラヴ教会でのミサか儀式の感動を再現したい気持ちに駆られて本作を手掛けたといわれている【2】。ラテン語でなくスラヴ語で歌われるのはそのためである。

 

 混声4部。ハ短調

 Wiki情報によると、変ロ長調ハ短調は宗教音楽上、好まれるらしい。3つの調号♭が三位一体を連想させるという。本当かどうか知らないが、嘘ではないような気がする。キリスト教の音楽では、曲の意味や内容を踏まえて楽譜を書く、<アウゲンムジーク>という技法がありもするのだから。

 たいへん美しい曲だが、やっぱりストラヴィンスキーである。やや復調的な旋律が仕込まれている。下にテノールの旋律(部分)を付す。

 

 

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『Otche Nash』テノール(部分) 筆者が作成

 

 

 なんとも不思議な旋律ではあるまいか。

 ほかの声部と見比べてみても、一目瞭然である。

 

 

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『Otche Nash』(部分) 筆者が作成

 

 

 ストラヴィンスキーは復調を好んで使ったことで知られており(『新訂標準音楽辞典』の「多調性」の項をひらいてみれば、初期の使用例として真っ先にストラヴィンスキーの『ペトリューシュカ』が挙げられているくらいである!【3】)、合唱作品での積極的な使用も認められる。代表的なものに『星の王』(管弦楽男声合唱曲)などが挙げられるが、本作でも復調的な旋律が採用されている。「テノールだけ」っていうのが、また、なんともストラヴィンスキーらしいというか・・・。

 

 加えて、異様なまでの変拍子が目に留まるが、これは言葉のイントネーションを重視した結果であって、複雑というよりは、むしろ自然である。

 これまたストラヴィンスキーの特徴で、作曲家の作品にはシラビックに歌うことが要請されるものが少なくない。従って、上に張り付けた動画はいい演奏だと思うのだが、テヌート気味すぎるわけだ。

 

 


Stravinsky: Mass - Credo

 

 


Igor Stravinsky - Le roi des étoiles [With score]

 

 

 『ミサ曲』「クレド」、『星の王』を挙げた。

 いずれも復調的でシラビックな合唱を伴う作品である。

 

 ストラヴィンスキーは後年に『Otche Nash』をモデルに『Pater Noster』という作品を作っている。これは歌詞がラテン語だし、調性もハ短調ではないのだが、どう聴いたって『Otche Nash』が元ネタなのだが、松原千振氏ほか『合唱名曲ガイド110 アカペラによる混声合唱』で取り上げられていた覚えがある【4】。日本でも上演されているっぽいので【5】、まったく上演されなさそうな作品ではないのだろう。

 

 今後も不定期で讃美歌は取り上げていくつもりでいる。第2回はジョスカンかアンサンブル・オルガヌムの話かな。

 なお、次回は間宮芳生氏の予定。

 

 

 

・・・ところで、さきほどこんな動画を見つけてしまった。

 

 


Stravinsky - The King Of The Stars

 

 

 ピエール・ブーレーズが指揮する『星の王』。

 こんな動画があったとは。。。

 

 

1 池原舞『ストラヴィンスキーと《詩編交響曲》 ―鎧を着た戦士の戦い』P2から引用。

2 前注に同じ。

3 『新訂 標準音楽辞典』(音楽之友社 1991年)P1058を参照されたい。

4 松原千振ほか『合唱名曲ガイド110 アカペラによる混声合唱』(音楽之友社 2001年)

5 2016年に東京都合唱祭でNTT合唱団が『Pater Noster』を演奏している。

 

 

ストラヴィンスキー 作曲家別名曲解説ライブラリー』(音楽之友社 1996年)

池原舞『ストラヴィンスキーと《詩編交響曲》 ―鎧を着た戦士の戦い』

『新訂 標準音楽辞典』(音楽之友社 1991年)

松原千振ほか『合唱名曲ガイド110 アカペラによる混声合唱』(音楽之友社 2001年)