讃美歌のたのしみ : イーゴリ・ストラヴィンスキーの『Otche Nash』

 

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ストラヴィンスキー


 

 東京の祖母の宅に邪魔をしている。

 小さなリビングには母がむかし愛用していたアップライトピアノが置いてあって、訪ねたときはいつも、何時間もそれで「遊んでいる」。祖母はピアノの音をいっこうに気にしないので、いつまでもピアノの前にいられるのである。

 東京といっても埼玉に近い方にあって、窓から顔を覗かせれば、西武線の線路が見える。いまも電車が数分おきに右から左に、あるいはその逆の方に走り交っている。

 

 ピアノでよく弾く合唱曲がある。

 イーゴリ・ストラヴィンスキーの『Otche Nash』である。

 


Igor Stravinsky - Pater Noster - Отче Наш (Otche Nash - Church Slavonic)

 

 「ストラヴィンスキーといえば『春の祭典』(のエピソード)」。という感が些かあるが、実は合唱作品もそれなりに手掛けている。しかも、宗教色の濃い合唱作品が多い。

 

 

生存をかけた戦いの要となる作品に宗教的題材を選択したことは、彼の私生活と個人的な感情にも基づいている。1924年に自作の《ピアノ・ソナタ》(1924)を公共の場で演奏するにあたり、右手の激痛に苦しんだが、神への祈りによって快癒した。このことがきっかけとなり、反抗期から一時背けていた宗教世界を見つめ直し、信仰心を取り戻した。

 

池原舞

ストラヴィンスキーと《詩編交響曲

―鎧を着た戦士の戦い【1】

 

 

 『Otche Nash』もそうしたキリスト教典礼曲で、ラテン語で「Peter Noster」と訳される。しばしば「我らの父」「主祷文」と邦訳されるようである(この典礼文については和田朗氏のブログhttp://www2.odn.ne.jp/row/sub2/seika/seika_01.htmに詳しい)。

 ストラヴィンスキーは幼少時に体験したスラヴ教会でのミサか儀式の感動を再現したい気持ちに駆られて本作を手掛けたといわれている【2】。ラテン語でなくスラヴ語で歌われるのはそのためである。

 

 混声4部。ハ短調

 Wiki情報によると、変ロ長調ハ短調は宗教音楽上、好まれるらしい。3つの調号♭が三位一体を連想させるという。本当かどうか知らないが、嘘ではないような気がする。キリスト教の音楽では、曲の意味や内容を踏まえて楽譜を書く、<アウゲンムジーク>という技法がありもするのだから。

 たいへん美しい曲だが、やっぱりストラヴィンスキーである。やや復調的な旋律が仕込まれている。下にテノールの旋律(部分)を付す。

 

 

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『Otche Nash』テノール(部分) 筆者が作成

 

 

 なんとも不思議な旋律ではあるまいか。

 ほかの声部と見比べてみても、一目瞭然である。

 

 

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『Otche Nash』(部分) 筆者が作成

 

 

 ストラヴィンスキーは復調を好んで使ったことで知られており(『新訂標準音楽辞典』の「多調性」の項をひらいてみれば、初期の使用例として真っ先にストラヴィンスキーの『ペトリューシュカ』が挙げられているくらいである!【3】)、合唱作品での積極的な使用も認められる。代表的なものに『星の王』(管弦楽男声合唱曲)などが挙げられるが、本作でも復調的な旋律が採用されている。「テノールだけ」っていうのが、また、なんともストラヴィンスキーらしいというか・・・。

 

 加えて、異様なまでの変拍子が目に留まるが、これは言葉のイントネーションを重視した結果であって、複雑というよりは、むしろ自然である。

 これまたストラヴィンスキーの特徴で、作曲家の作品にはシラビックに歌うことが要請されるものが少なくない。従って、上に張り付けた動画はいい演奏だと思うのだが、テヌート気味すぎるわけだ。

 

 


Stravinsky: Mass - Credo

 

 


Igor Stravinsky - Le roi des étoiles [With score]

 

 

 『ミサ曲』「クレド」、『星の王』を挙げた。

 いずれも復調的でシラビックな合唱を伴う作品である。

 

 ストラヴィンスキーは後年に『Otche Nash』をモデルに『Pater Noster』という作品を作っている。これは歌詞がラテン語だし、調性もハ短調ではないのだが、どう聴いたって『Otche Nash』が元ネタなのだが、松原千振氏ほか『合唱名曲ガイド110 アカペラによる混声合唱』で取り上げられていた覚えがある【4】。日本でも上演されているっぽいので【5】、まったく上演されなさそうな作品ではないのだろう。

 

 今後も不定期で讃美歌は取り上げていくつもりでいる。第2回はジョスカンかアンサンブル・オルガヌムの話かな。

 なお、次回は間宮芳生氏の予定。

 

 

 

・・・ところで、さきほどこんな動画を見つけてしまった。

 

 


Stravinsky - The King Of The Stars

 

 

 ピエール・ブーレーズが指揮する『星の王』。

 こんな動画があったとは。。。

 

 

1 池原舞『ストラヴィンスキーと《詩編交響曲》 ―鎧を着た戦士の戦い』P2から引用。

2 前注に同じ。

3 『新訂 標準音楽辞典』(音楽之友社 1991年)P1058を参照されたい。

4 松原千振ほか『合唱名曲ガイド110 アカペラによる混声合唱』(音楽之友社 2001年)

5 2016年に東京都合唱祭でNTT合唱団が『Pater Noster』を演奏している。

 

 

ストラヴィンスキー 作曲家別名曲解説ライブラリー』(音楽之友社 1996年)

池原舞『ストラヴィンスキーと《詩編交響曲》 ―鎧を着た戦士の戦い』

『新訂 標準音楽辞典』(音楽之友社 1991年)

松原千振ほか『合唱名曲ガイド110 アカペラによる混声合唱』(音楽之友社 2001年)